べっ甲の歴史
日本におけるべっ甲の歴史はかなり古く、飛鳥・奈良時代にさかのぼります。
聖徳太子が小野妹子を隋に遣わしタイマイをもたらしました。
東大寺正倉院の宝物殿のなかの「玳瑁杖」「玳瑁如意」「螺鈿紫檀五絃琵琶」等が中国からもたらされたとされます。
平安時代には菅原道真を祭る道明寺天満宮に「玳瑁装牙櫛」が国宝として所蔵されいます。
鎌倉時代には鎌倉八幡宮宝物殿に矢たて、その他にべっ甲を使用した製品が宝物として現存しています。
江戸時代には「徳川家康の眼鏡」とされる宝物が久能山東照宮に現存、所蔵されています。
べっ甲細工の技術は6世紀末に中国で生み出され、この技法は16世紀にポルトガルに入り、当時マカオ地域に住んでいた中国人によって製品はつくられ、ポルトガル人の渡来により長崎地区に伝えられ、長崎を中心にべっ甲細工の技術が発達し、浪花・江戸と伝達されました。
当時、亀(玳瑁)は鶴とともに長寿のしるしとして目出度い品とされ、各地の大名に愛用され、半京、平打、笄、簪などが作られるようになったが、高価のため元禄時代には「奢侈禁止令」により、庶民には手に入りにくい貴重な物でした。
しかし、ある藩主が婚礼に際し「是非とも、玳瑁製品は必要である」とし、幕府に対して「玳瑁は唐より渡来した高価品であるが、わが日本国内地の亀の甲で作る品は差し支えなきや」と苦肉の上伸を行い、鼈甲(すっぽんのこう)で作る品ならば一向に差し支えなしと許可を得て、以来玳瑁の名称は鼈甲(べっこう)と改称されたという説があります。
明治・大正にかけて日本の伝統工芸品として各国の万博博覧会に出展し好評を得、美術品としても、宮内庁三の丸尚蔵館に「双鶴置物」「伊勢海老」などの昭和の名品が所蔵されています。
このように明治、大正、昭和、平成、令和にかけて、その技術は受け継がれ、各時代にあった装飾品、眼鏡、工芸品が造られています。